キャプテンコラムCAPTAIN COLUMN

株式会社キャプテン・ユーの社長が
日常生活で感じたことを綴ります。

追悼 大創産業創業者 矢野博丈氏

100円ショップ草分け的存在、大創産業創業者矢野博丈さんが2月12日に心不全で急逝された。突然の訃報に驚いた。産経新聞朝刊で月2回程の「100円の男」のタイトルで連載されていたコラムを読むのが楽しみであった。難しい言葉を使われずに、一言ひと言が腑に落ちる内容だった。発する言葉が「会社は潰れるものだ」とかネガティブなものが多く、悲観論者かと思いきや実はそうではなく、常に事業が好調な時でも慢心せずに足場をきっちり固めてから次に進むといった形である。いち早く海外展開も行い、そのうち国内売り上げを凌駕する日も近いと思う。国内に於いても100円ショップ以外の業態店舗を積極的に展開されており、細心かつ大胆な経営者だと言える。矢野博丈と言えば今では誰もが大経営者だと認めるが、コラムでも自虐的に書いておられるが、落ちこぼれ人生みたいだった。養殖業の失敗で夜逃げをした。百科事典の販売では口下手が災いしたのか成績はいつもビリだった。転職を繰り返したが、どれも上手くいかなかった。自分は能力も運もない人間だと落ち込んでいたようだ。唯一チリ紙交換の仕事だけは、まだ少しは上手くいったようである。僅かに貯めた資金を持って広島に戻り、大阪の雑貨問屋で仕入れた商品を車で移動式販売を始めた。この移動式販売が順調に推移した。ある時、商品出しの準備をしている時に、消費者がパッキングケースの中の商品を指して「これいくら?」また別の消費者も同じように別の商品を指して「これなんぼ?」と聞いてきた。原価を確認して売価を決める手間がなかったので、「100円です!」と応えたのが100円売りの原点である。この後も仕入原価は違うが全商品100円売価を通した。「安物買いの銭失い」と言われるのが嫌で、儲けよりお客様に喜んでもらえることを優先した。スーパーマーケットの店頭販売は当時最高の売り場であったが、政治的圧力で同業他社に場所を譲ることもあったが、売れ行きが全く違うので、すぐにスーパーの担当者から呼び戻らされた。売れる商品を提供出来れば、接待とか、必要以上の人間関係などは必要ないということである。商品に自信がないから接待など、あれやこれやと手を尽くす訳である。矢野博丈さんが社長を退くと決めたのは「会社はもう潰れないかも・・」と思った瞬間だったらしい。そこに自分の気持ちの緩みを感じ、また時代についていけていないと感じたからである。ここまでの成功者なら権力にしがみ付くものだが、社長を退いて会長もスパッと1年で辞めている。まったくもって潔い。経営者の端くれとして私自身、矢野博丈さんの考え方には大いに参考になったと感謝している。

天国でのご冥福心よりお祈り申し上げます。

                                                                                                                                    合掌      

独り言の好きな男より